*『眠れる森の罪びと』本編、居酒屋で気をきかせた勇太と宙
失敗した。コートを着て出るべきだった。
十一月の夜、ビルとビルを吹き抜ける冷たい風が首元の熱を奪っていく。
「勇太くん、どこまでタバコ買いに行く気? ていうか、ほんとに吸うんだ?」
うしろからついてきた宙が勇太に並んだ。宙もコートを羽織っていない。
「吸わねーよ」
俺、タバコ吸いたい。宙、ちょいつきあって――適当な嘘をついて、遥史と希生をふたりきりにしてやろうと居酒屋を出てきた。
遥史の泣き顔は見たことがない。きっとこれまでは何かあっても、ひとりでひっそり泣いていたのだろうと思うと……。
足をとめ、目に付いたガードパイプに浅く腰掛けた。
宙は小さくため息をついて傍につっ立ったまま、通行人や居酒屋のメニュー看板を見るともなく見ている。
「なんかさ……ちょっと僕、泣きそうだった」
宙が顔を背けてそう言った。本当はもう、さっきから宙が涙目なのは気付いてる。
「……だから歩いてたんだろ」
心の中をからっぽにしてひたすら前を見て、動き続けていないと。
「とまったら、いろいろ考えちゃうだろ。俺だって……」
振り向いた宙の目に涙はない。でも、今にも泣きそうな顔だ。
「勇太くんって、遥史のこと好きだったの?」
「ばか。違うよ。そんなんじゃなくて、なんか、希生と宙が病院に搬送されたときから今までのことが頭ん中ぐるぐる廻って……ここまでくるのにほんと長かったけど、その間、想いがぜんぜん変わんなかったあいつらに、……感動してんだ」
言ってる傍から鼻の奥がツンときて、奥歯を食いしばる。冷たい風を鼻から吸い込んで、思わず昂ってしまった気持ちを落ち着けようと努力しなければならない。
「……そういう宙こそ、どうなんだよ。希生のこと好きだったのか」
勇太の問いに、宙は「うーん……」と首を傾げる。
「どうだろう……友だち以上な気もするし……。なんか、分かんないや。大切だって想いと罪の意識が一緒になってるからかな。……でももう自分のそんな気持ちは置いといて、遥史とちゃんと幸せになってほしいなって本心から思うよ」
自分自身と向き合い、確認しながら、という答え方だったけれど、宙が言いたいことは伝わった。
それなら自分も宙と同じだ。ずっと近くで見てきたから、遥史のことは大事に想っているし、希生にしても、失った時間を手繰るより、これからはふたりの未来を見据えて幸せになってほしいと思う。
遥史の嘘ごと見守り続けた役目は今日、終わってしまった。
「分かった。俺たぶん、寂しいんだ。とうとう遥史は希生のものになっちゃったかー、っていう。今日はあいつうちに帰ってこないだろうし。俺は今夜ひとりで、すごい寂しくなりそう」
泣き真似しながら笑うと、それを見ていた宙も肩を揺らしている。
「今夜、僕が泊まってあげよっか?」
「ええ?」
それは驚きの展開だ。
お互い、ひと月前に電話で話しはしたものの、今日の再会が十二年ぶり。
だけど『幼なじみの友人』とは不思議なもので、時間の隔たりなんて一瞬で飛び越えて、昔みたいになんの違和感もなく話していた。さっきまではたしかに。でも「泊まる」と言われたら途端にどきっとしてしまう。どきってなんだ、って思うけど。
「え、何、その間。今夜泊まるホテルは取ってるから、べつに……」
「あ、いや、うん。まじでうちに泊まる?」
「勇太くんが『寂しいよ〜』って泣くから、じゃあ泊まってやってもいいかなって」
「言い方ー」
「なんか間違ってる?」
宙が勇太に並んでガードパイプに腰掛けた。腕に、宙の腕がくっつく。
「ちょっとほんとに寒い。まだ戻っちゃだめかな」
「ちゅーくらいゆっくりさせてやれよ」
「覗きたい気もする」
しれっと言いやがる。
横目で見ると、宙はにまっと笑っていた。
「おまえキレーな顔して案外、下世話だな」
「愛し合ってる人たちのキスって、なんか、いいじゃん。いいなぁ、僕もどっぷり恋したいなーってなりたい気分」
「恋したいなーとすらなっていなかった、と?」
「だいぶ遠ざかってるから、恋する気持ちってどんなんだっけ、ってかんじ」
「なるほど」
「勇太くんは? 彼女いるの?」
「二年くらいいないし、俺も似たようなもんかな」
勇太だけ年上だったせいもあって、子どもの頃の四人の間ではほとんどなかった話題だ。
でも宙がさっき言ったことも、分かる気がする。ときめく材料すら今の自分にはないけど、漠然と、恋をしたい欲求だけある。
「……宙ともっと話したいな。酒買って帰って、飲むか」
「僕、けっこう負ける気しない」
「おまえ今、俺の闘争心に火をつけたぞ」
明日「ただいま」と帰ってくるはずの遥史を、どんな顔して、どんな言葉で出迎えようか。
二日酔いでそれどころじゃなくて、かまっていられないかもしれないけど。