*『眠れる森の罪びと』本編後
遥史は箸で掴んだばかりの『たらの芽の胡麻掛け』を、希生からの事後報告の衝撃で小鉢にぽとりと戻してしまった。
「え? え? 話した……って?」
い草が香る畳敷きの和室。八人は座ることができる大きさのテーブルには、ふたり分の会席料理が所狭しと並んでいる。たらの芽の他に、はまぐりや蓮根、鰆、サーモン、と春を感じさせる前菜の数々。地魚のお造り、小鯛の笹寿し、伊勢海老・鮑・タラバ蟹の宝楽焼などなど。
混雑するゴールデンウイークを避けてその三週間後、熱海の温泉旅館に一泊。遥史と希生のふたりではじめての旅行だ。
大浴場の露天風呂は海を望む解放感溢れるつくりで、部屋の露天風呂はひのきがふんだんに使われた落ち着いた佇まい。「ここにしてよかったね」なんて言って大浴場を満喫し、御夕飯が始まってすぐに、希生から寝耳に水の報告を受けた。
「だから、新婚旅行なんだ、って。おとんとおかんに」
「いや、違う、いや、そこもどうかって思うけど、『だから』の前」
「遥史とつきあってるっていうか、もう結婚したぐらいの気持ちです、って」
「けっ……」
たしかに、プロポーズみたいなことは言われたけども。
「うううう嘘だろ、……」
箸を握りしめたまま深く項垂れる。希生の両親にまだふたりの関係について何も話をしていなかった。しかも『新婚旅行なんだ』なんて言葉が出てきたあたり、真摯な姿勢で報告したとは思えない。
四月から希生は実家を離れて遥史の家で一緒に暮らしてるのだし「いやもう、バレバレだとは思うけど」といつも希生が言っていたとおりだったとしても、自分の口で話さなければと思っていた。当然、きちんと、まじめに。真剣な想いなのだとまっすぐに伝わるように。
希生の母親にきのう会ったとき言われた「希生のおばあちゃんの新婚旅行も熱海だったんですって」という言葉の真意が、やっと今分かった。
「お……俺、きのう希生のお母さんに会ったんだぞ」
まさか希生の母親に知られているとはつゆ知らず。「希生のおばあちゃんの〜」に「最近また熱海がはやってるみたいですね」とばかみたいににこにこと返してしまった。希生の母親はそれ以上突っ込む気も失せたに違いない。
「あ、そうなんだ?」
「そうなんだ? じゃないよっ。なんでそういう大事な報告を忘れるかな!」
「だってさ、旅行の荷造りばたばたやってるうちに」
希生は悪びれない。うずらの卵とめかぶの酢の物を食べてのんきに「あ、これおいしいよ」なんて言っている。
「希生ぉ……物事には順番ってもんが」
「どのタイミングで話せばいいかって迷ううちに、ずるずるしちゃうかなって思ったしさ」
「そりゃそうだけど……希生ひとりに言わせるなんて」
「おみやげ買ってけばいいよ。ふたりで」
希生にとっては『自分の親にひとまず報告』という感覚でも、このデリケートな話題に遥史は冷や汗が出る思いだ。
希生の両親からしたら大切な息子の十代、さらにこれから先の人生までひとりの男――遥史に奪われてしまうような複雑で切ない気持ちにならないだろうか。ふたりのことを話すときはそれ相当の覚悟をもって行かなきゃと思っていたけれど……。
「遥史」
「……え?」
呼ばれて顔を上げると希生が優しく微笑んでいた。
「だいじょぶ。言った直後は驚いた顔したけどおかんは『息子がふたりになるみたいなもんね』って笑ってたし。おとんからはとくにコメントなかったけど、おかんのとなりで頷いてた」
一瞬思い浮かべた後ろ暗いものを希生はあっさりと一掃してくれる。そしてそんな希生を育てた人は偉大だ。
「希生のお母さん、お父さん、すごすぎる」
「肝が据わってんな、って思う、俺も。まぁ、これまでいろいろあったし、俺が幸せに生きてるってだけでもう充分だって。それに相手が遥史なら、この先なんも心配いらないって言ってた」
息子がふたりになるみたいな――あとになってじわじわとその言葉が染みてくる。遥史にはもう肉親がいないからよけいに。遥史の母親が病死したときも、祖母と祖父を短い間に亡くしたときも、「なんか困ったことがあったら話してね、頼ってね」と希生の母親は優しく言ってくれた。実際、希生が入院していた頃も、プラスチック容器に総菜を詰めて遥史に持たせてくれたり、未成年ゆえにこまごました手続きで困ったときに代理人になってくれたこともある。
「いくら感謝してもたりないな……。俺も、希生のお父さんとお母さんに、今からできることなんでもしたい。させてほしい」
「俺と一緒に」
そう付け加えた希生に、遥史はあたたかい幸せを感じながら「うん。ありがとう」と頷いた。
希生が退院したらやろう、とリストアップしていた事柄の中で、『旅行』だけがずっと残っていた。映画館で映画を観るとか、動物園に行くとかいろいろあって、退院のときにリストを見た勇太には「何これ。デート計画?」と笑われたりして――希生が退院してもう四年も経ったんだ、旅行もできるようになったんだと思うと感慨深い。
見上げれば寝待月。部屋の露天風呂で、斜向かいの希生は胸の辺りまで浸かり、ひのきの上縁にゆったりと肘を引っかけてこちらを見ている。
「今度は一泊じゃなくて、もちょっと遠くに、連泊の計画立てたいな」
希生の提案に遥史は「そうだなー」と同意して続けた。
「北海道とか、九州とか。せめて二泊三日は欲しい。いつか希生と海外旅行もしたい」
「いいね、海外。とりあえず台湾とか韓国だったら、休みもそんなに必要ないから現実的だし。帰ったらまた次の予定考えようよ」
「旅行の計画すんのも楽しいしね」
希生と「この宿は部屋がいいけど、こっちの宿の料理も捨てがたい」とあれこれ意見を出し合い、名所や名産品を調べて、ぜったいおみやげに買って帰ろうとか、夜遅くまで話すことも含めて。
「幸せ……」
ほうっと息をはき、滑らかな肌触りのひのき風呂のへりに腕を伸ばして頬をぺたりとくっつける。少し冷たいのが心地いい。
掛け流しの温泉とは違う水音がして瞼を上げると、すぐ傍に希生がいた。ひのきにもたれかかったまま希生を見つめる。
うっすら笑みを浮かべた希生が何も言わずに顔を寄せてきて、遥史はキスを待った。
触れ合う寸前に、ぴたりととまる。
しないの? と目で問うと、希生は「ふふ」と笑った。
「キスする寸前の、遥史の顔が好き。眸が、目尻が、とろん、ってなる」
「観察するなよ」
「キスしてって顔、かわいい。待ってんの、かわいい。俺が手ぇ出すの、しようって言うの、いつも待ってるもんね」
「うるさいなぁ、もう」
希生に背を向けてひのき風呂のへりについた腕に「見るなー」と顔を伏せる。
ご機嫌を窺う声で「遥史ー、はるー」と呼ばれ、肘を掴まれた。そのまま振り向かされて、目があったら照れが先にきてふたりして笑ってしまう。
「遥史は『あ〜〜もう、したい!』ってならないの?」
「俺だって男だよ。なるよ。でもどうやって誘ったらいいのか分からない」
「ぐるぐる考えすぎて動けないなら、目ぇ見て俺の名前呼ぶだけでいいよ。俺なんかほいほいされる。超簡単」
くすくす笑いあって、ためにためて見つめあってから「……希生」と小さく呼んだ。
「ぞくぞくする」
願いが叶って、ようやく唇が重なる。はじめは軽く、何度か啄まれるうちに、遥史は希生の首筋に腕を回した。
湯の中で、ぐるんと身体の位置が変わる。ひのきの縦張りを背もたれにする希生に遥史が跨がるかたちで落ち着いた。
舌を絡めて側面や表面をこすりあうと、口内に甘い唾液が溢れてくる。
「んっ……」
顔の角度を合わせて、深く。口蓋に、舌下に触れられると、背筋に微弱な電流が流れるよう。されるばかりじゃなく同じ快楽に浸ってほしくて歯の裏側や粘膜を舌で探ると、希生から気持ちよさそうな声が漏れた。好きな人を感じさせるのは楽しい。
希生の手がペニスを包み込み、軽く上下に動かされる。湯の中なのに、ぬるりと滑る感触、あっという間に。
「希生、……」
首を振ると希生が「気持ちよくない?」と覗いてくる。でもきっと「だめ」と言っても説得力ゼロの顔をしているはずだ。
「いい、けど……あっ……」
「外に出せばいいよ」
「でも、もう……んっ……」
「うん。先っぽぬるぬるしてるね」
「はっ……あ、や……」
「咥えてやる」
そう言った直後に抱きかかえられて、ひのき風呂の上縁に座らされた。
鈴口からとろりと滴るのは、湯と、蜜と。それを希生に啜られる。
「あぁ、あっ……」
希生の頭が深く浅く動いて、とまることなく高めてくれた。
あまりの気持ちよさに腰を揺らしてしまう。そのまま板張りに仰臥すると深く強く吸い上げられて、惜しみない愛撫に腰がとろけてそのまま果てた。
身体中、頭の芯まで、夕飯で食べたデザートのミルク色のババロアみたいに柔らかになっている気がする。
「外で、こういうことすんのはじめてだね」
外、と言われてはっとした。四方を塀と木々に囲まれているとはいえ、頭の上に広がるのは夜空だ。
「このまま、もちょっとしていい?」
「もうちょっと……って」
「響くだろうから声は抑えてね」
「え……あっ」
ぬるりとしたものを後孔に塗りつけられて、それが今し方、希生の口内に自分が放ったものだと気付いた。
「き、希生」
「俺の唾液と混ざってる……と思うと興奮する」
指が容赦なく入ってきて、「はぁっ」と声を上げた口を希生の手で塞がれる。
「しぃっ」
静かに、と命令しながら、深くまで挿し込んでくるから、身を縮めて目をぎゅっと瞑った。
「んっ、ふ、……ん、んんっ」
口を塞がれて鼻から抜ける声がよけいにいやらしい。希生の指使いにまったく遠慮がなくて、それどころか狙ったように胡桃を揉み込んで、遥史が身を震わせて声をこらえる様を見て悦んでいる。
「挿れたくなっちゃうなぁ。……ちょっとだけ挿れていい?」
「ちょっと、って何っ……」
「先っぽだけ」
「ばかっ……、っ!」
「温泉効果なのか、ここ柔らかいし」
指で奥を掻き回しながら希生が上に重なってくる。脚を抱えられて、窄まりに希生のいつもより熱いものを押し当てられたらもうぜんぜん拒めない。
「き、希生のなんか、熱い」
「これも温泉効果で」
笑う余裕もない。熱いペニスがぬぷりと潜り込んだら、背筋に強烈な快感が走った。隘路を希生のかたちに広げられながら最奥まで。全身が悦楽に呑まれ、必死に声をこらえることしかできない。
「希生、や、やだ」
「ちょっとだけ」
「先っぽだけって言ったくせにっ……」
いつの間にか、ちょっとだけ、の定義が曖昧になっている。希生の先端は奥壁を突いてくる。
「や、やだ、奥っ……」
「もうちょっとだけ……あぁ、……気持ちいい」
感じ入った声でそんなことを呟かれたら、何も言い返せなくなる。希生のよさそうな顔を見上げて、腰がぞくぞくっと震えた。
「きお……」
奥を捏ね回されて歯を食いしばると「それ、よけい締まるから」と楽しそうで、慌てて力を抜けば好き勝手されて身体は高まるいっぽうだ。
「……やっぱ抜かなきゃだめかな」
「そんなっ……」
正直な衝動で、思わず希生の腕を縋るように掴んでしまう。すると希生は嬉しそうに笑って、いっそう強く、抉るような腰使いで遥史を追い上げ始めた。
自分の手で口を押さえ、希生の律動に身を委ねる。声を出せないという制限がつき、ここが外だという非日常な場所のせいで、いつも以上に昂ってしまって。
「ひ、うっ、……んっ、んぁっ」
抽挿されるたびに湧いた快楽が、分厚く重ねられていく。きつく収縮し、蠕動する内壁を逞しく張ったペニスでぐちゃぐちゃに掻き回され、強烈な快感に耽溺した。
希生に抱き起こされ、振り子みたいに腰をぶつけられて、もう何も考えられなくなるほど気持ちいい。腹の底を突かれるたびに、脳内まで快感に痺れる。
「き、おっ……希生……」
希生の首筋にしがみついて名前を呼ぶと耳元で「気持ちい?」と問われて、揺さ振られながらこくこくと頷いた。
「このまま俺のでイくまでしていい?」
「でもっ……」
どうしよう、どうしよう。最後まで声を抑えるのはきっと難しい。
希生が顔を覗き込んできて、喉の奥で笑っている。
「遥史、とろけてる。めちゃめちゃよさそうな顔してんじゃん」
「だ……って、すごくっ……」
「やめたら、やだろ?」
ひたすら抽挿され、頭の中は濃い快楽でいっぱいにされていく。気持ちよすぎて他のことなんて何も考えられない。接合部が泡立つくらいに掻き回されて、限界がすぐそこまで迫っている。
「きお……、希生っ……、もう、もう」
「俺も、イきそう」
板張りに背中から戻されて、口元を希生の手で覆われる。
「なんか、これ、強引にヤってるみたいでちょっと興奮する」
征服欲を掻き立てられるのか、希生は実際少し上擦った声でそう言った。
遥史のほうも自由を奪われて、好きな人に欲望もあらわに組み敷かれているかんじにぞくぞくしてしまう。
「んっ、うんっ、んふ、っ……!」
ついに大きな波が来て、両手両脚で希生にしがみついた。希生も遥史を抱きしめ、ぐっと腰を押しつけてくる。その瞬間は、いっこの丸いかたまりになったみたいに感じた。
遥史の奥で希生が熱を弾けさせ、悦びに内襞が痙攣する。遥史も前を弾けさせ、強烈な絶頂感の中、なおも希生を貪るように収斂して最後の一滴まで享受した。
荒く乱れた呼吸が整うのを待って、しばらく重なったまま。
目を開ければ、視界は涙でぼんやりと滲んでいる。手の甲で拭って、見上げた星空が綺麗で、ほうっと息をついた。何もかも満足、と言わんばかりの吐息に、希生が喉の奥で笑う。
「すぐそこに布団があるっていうのに」
「遥史だってこの部屋に決めたとき、露天風呂でえっちすんのかなーって考えたでしょ? するに決まってんじゃん。部屋に露天風呂っつったら、ここでしなきゃ来た意味ないし」
「意味って……」
「めっちゃノってたくせに」
「……うん」
正直に頷いたら、希生ににんまりされた。
「ああ、温泉でいちゃいちゃ楽しいなぁ。でも、お布団でもしような」
「えー?」
「次は浴衣で半裸えっちしたい」
ふたりでしたいことリストにはさすがに書いてないけど。希生の新たな提案に遥史はぷぷっと噴き出した。
「俺……今本当に幸せだ。希望をひとつずつ叶えて、傍に遥史がいてくれて、これから先もずっと続いてくんだ。幸せにしてもらってるから、俺も遥史のこと幸せにする」
「もう、充分してもらってるよ」
怖いくらい幸せ、というけれど、幸せすぎたらなんにも怖くない。ただただ好きな人の言葉と存在を、未来を、無垢に信じられるものだと、今この瞬間に分かった気がする。
「寒い」と遥史が訴えると、「綺麗にしてあたたまったら部屋に戻ろ」と希生が甘く微笑んだ。